窪美澄「ふがいない僕は空を見た」を読んで

自分たちのものだとすっかり勘違いして、好き勝手にやる人間の存在は、地球の立場から考えると、えらい迷惑な話である。雨が降ると空が泣いている、雷が鳴ると空が怒っている、と遊び半分に言うが、そりゃあ地球だって泣いたり怒ったりするわなあ、と思う。発狂寸前である。環境問題は止むことを知らず、次々に勃発して、これから生まれてくる子供たちが大人になったときの地球はどんな姿をしているんだろう、なんて考えると怖くて仕方がない。今でさえ、こんなに脅かされてしまっているのに(日本のえらいところにいる人たちは本当に何様のつもりなんだろう)、これからどうなっていくんだろう。じゃあ、辛いから怖いから、部屋の隅っこに体育座りをしてうずくまっていたらいいのかというと、それでは何も解決しないんだよなあ。「自分を守るのは自分だ」という言葉は、真実を語っていると思う。自分のことはちゃんと自分でするから、自分のことはちゃんと自分で守るから、じゃあ、せめて、せめて、土台である世界(地球)だけは守ってくれ。頼むから。と、大人に言いたい。大人が子供にしてやれることなんて、それに尽きる。子供の未来を約束できない大人なんて、クソ同然である。何が仕事だ、何が家族だ、口先ばっかでふざけている。都合が良すぎて困ってしまう。だけど人間に生まれたからには、その生をまっとうする必要があって(もちろん植物だって動物だって同じである)、「辛いから死にたい」なんて随分と自分勝手。だけど死にたくなるほど辛いときだってある。だけど、そこで死んではいけないのである。生きてこそ、なのである。今日も明日も明後日も、そして今この瞬間にも新しい命は誕生しているのだから。わたしたちはいつだってそれを賛美できる余裕がないといけないのである。

窪美澄の「ふがいない僕は空を見た」を読んだ。第8回R-18文学賞大賞、第24回山本周五郎賞受賞、本屋大賞第2位など数々の賞をかっさらった話題作である。はっきり言って、すごかった。今年のベストブックに決定である。まだ今年中に読む本はあるにせよ、これがぶっちぎりの一位だと確信できるくらい、すごかった。リアルな描写で想像を現実へと近づけ、読んだ者を物語の世界へと引きずり込む。重松清さんが「不思議な清潔感がある」と帯に書かれていたけど、本当にそう。少し前にある作家の官能小説を読んで、「きれいな日本語で書かれた本が読みたい」と切実に思ったのとは裏腹に、この作品は細かい性的な描写が多いのに、嫌らしさは全く感じられず、むしろ切なくて愛しくて胸がきゅうっとなるのである。時折、計り知れない愛情の大きさに涙が出そうになって、苦しくなる。

ありがちな展開にもいちいちグッと来るのは、きっとこの物語が、まっすぐで、いたるところから一種の「覚悟」みたいなものが感じられるから。もっと言ってしまえば、「セックス」で終わりではないから。「その先」がこの物語にはある。わたしたち人間は、絶望や儚さを前にすると涙が出る。叫んで喚き散らして、ってできたらどんなに楽だろうと思う。大事なのは、それをするもしないも、それ自体が「生きる」ということだと理解することなんだろうなあ、とか漠然にだけど考える。

不幸な出来事が起こったときに、わたしたちは、寿命だとか運命だとか、一言で簡単に片付けてしまう。でもそれは実はすごく無責任なこと。だけど、そうすることでしか、その出来事を解決できないのもまたわたしたち人間に与えられた定めみたいなもので、なんだかなあ、と思う。

「何をおいのりしているの?」
「子どものことだよ」おふくろは目を閉じたまま言った。
「ぼくのこと?」
「もちろんあんたも。ぜんぶの子ども。これから生まれてくる子も、生まれてこられなかった子も。生きている子も死んだ子もぜんぶ」

何度も言う。この物語には、生きることへの「執着」や「覚悟」がある。「祈り」がある。そして、すべてを包み込んでしまうような、「愛情」がある。
最後のページのある言葉を読んで、泣いてしまった。ぽろぽろ涙は溢れてきた。ここには「生きる」ことを全力で肯定する物語がある。


ラジオから、加山雄三とザ・ヤンチャーズの「座・ロンリーハーツ親父バンド」が流れてきた。

また泣いてしまった。そう、すべては「生きているから」なんだよなあ。