The 1975について思うこと

わたしは批評家でもなんでもないから、この曲最高だよねとか、この曲のここがたまらないよね、とか好き勝手に言ってればいいんだけど、色々と考えているうちに無性に言葉にしたくなるときがあって、今そんな気分だからちょっと書いてみようと思う。(というか本当は、サインマグのThe 1975のタナソウのレヴューを読んで、批評のあまりの面白さにたまげて興奮して、言葉にしないと居ても立っても居られないだけなんだけど)

The 1975の「Chocolate」を初めて聴いたときは、この曲が訴えかけてくる圧倒的なセンチメンタリズムにちょっと飲み込まれそうになったのは言うまでもない。

軽快なファンクギター、どっしりと構えたベース、変にでしゃばらないドラム、そしてマシュー・ヒーリーのカリスマティックな声。恋に落ちるのに時間はかからなかった。この曲には、どんな女の子さえも黙らせてしまうパワーがあったのだ。男女関係にとどまらず、何かに溺れるという行為は傍から見たら非常に哀れに映るが、当の本人は必死の覚悟でそれと向き合っている。快楽を求めるが故に生まれる密度の高い世界で生きている。ほとばしる情熱がちょっと羨ましかったりするよね。まあ言ってしまえば、わたしは彼らが作った「Chocolate」という曲に溺れてしまえればなあ、なんて軽々しく思ってしまったのである。女の子ってそういう生き物よ。

わたしは曲を初めて耳にしたときにダンスフロアを想像してしまう癖があって、そこで鳴ったときに思わず息が漏れてしまうような胸の高鳴りが曲にあるかどうかを一瞬にしてジャッジする。(だってダンスフロアに居て、聞こえてきた音が最高だったら、それはクール以外のなんでもないでしょ?)それをしたときにこの「Chocolate」という曲はパスするどころか許容範囲をオーバーしてしまって、収拾がつかなくなったわけ。ああ、これは出逢ってしまったなあ、って思った。繰り返し歌われる部分が「We're never gonna quit it(絶対やめたりしないよね)っていうのがまたグッとくるんだよなー。主語がIじゃなくてweであることも含めて。と、こんな風に彼らにガツンとしてやられたわけなのです。

フランツ・フェルデイナンドの新作『Right Thoughts, Right Words, Right Action』のブックレットの解説に「らしい」という言葉が使ってあって、それを読んだときに「らしい」という言葉ほど説得力に欠けていて曖昧なものはないと思ったんだけど、よく考えたら「らしい」という言葉ほど強い言葉はないのかも、とも思う。自分たちが身を削って創り上げたものが確立して初めて、人々はそれを「らしさ」と呼ぶから。「らしさ」にはなかなか太刀打ちできないもんね。だけどこのバンドに「らしさ」という言葉を使う日が来るようには今のところあまり思えないし、そういう意味では彼らが行き着く先、もしくは目指しているところは「大衆化」なのかもしれないと思う。プレイする会場がどんどん大きくなって、セレブ志向の商業音楽の道をまっしぐら。でもそういうのは正直とっても悲しい。だって「Chocolate」「The City」「Sex」3曲並べてみただけでも思わずため息が出てしまうくらい素晴らしいから。わたしは女の子だから良いものは独り占めしたい。もちろん、自分のものとして昇華するという意味でね。アジカンみたいにね。それにしても、彼らがこの「Chocolate」という曲を確信犯的に作ったのであれば、悔しいけれど負けたわ。お涙ちょうだいものは大っ嫌いだけど、これは負けたわ。だってこの曲、何度聴いても最高なんだもん。

ってこんだけだらだらと、文脈も気にせず書いたのは、The 1975が大好きだからですよ。彼らに夢中だからですよ。ただ、それだけです。表題曲以外の曲(特に「Settle Down」や「Girls」や「Menswear」)も素晴らしい。曲にしてもバンドそのものにしても、これは好き、あれは嫌いって花びらちぎって言うみたいにただ言ってればいいんだけど、真夜中にサインマグのタナソウのレヴューを読んで、はぁーなるほどなあ、と目から鱗が落ちる思いをしたわけです。変な話、曲一つとってもそれは「もの」ではなく「生き物」なんだと分かって興奮して明け方まで眠れなかったわけです。こんな体験初めてだったから、ああ、やっぱりThe 1975は只者じゃないかもなーと思ったのです。

本物とか本物じゃないとか、よく分からないけど早く自分の目でThe 1975が何者なのか確かめたいです。これだから音楽ってたまらないな−!